小松英雄『いろはうた』

いろはうた―日本語史へのいざない (講談社学術文庫)

いろはうた―日本語史へのいざない (講談社学術文庫)

外国にいてもアマゾンが届けてくれるんだね。アマゾンすげえ。高いけど。

さて、最近復刊された『いろはうた』。小松の本の中では未読のもののひとつ。「いろはうた」がどのような目的でつくられたかを、『金光明最勝王経音義』がなぜ、一行七字書きになっているのかという疑問から解きほぐしてゆく前半と、それがつくられた本来の目的から離れ、「仮名遣い」の規範として機能してゆくという史的展開のあり方について述べた後半とからなる。
なんというか、前半と後半とで、ちょっと手触りが違う印象がある。「いろはうた」が手習いを目的として作られたという、定説を否定する前半(5章まで)は、語学研究の方法はどうあるべきかといった、方法にも重点が置かれていて、しつっこいくらいの論証をするのだが、6章からは、そうしたくだくだしい論証は少なくなるし、なんというか問題意識も前半ほど明瞭ではない……というか、より専門的な問題意識から説き起こされているのか、いまいち伝わりづらい部分があるような気がする。

あと、いつもの細かい考証だけど、さすがに今回はくだくだしすぎるのではないかと思った。源為憲『口遊』の「世俗誦曰阿女都千保之曽里女之訛説也」について、4つの解釈がある、といって、大矢透が、きちんと根拠を明示せず、ひとつの解釈に決めてしまったことを批判するのだが、どうも行論の手順が……。

もってまわった検討の過程は、まったく徒労であって、どうせここに落ち着くぐらいなら最初から大矢透の解説を信じておけばよかったということになりそうである。しかし、われわれは、それをあえて疑うことによって不自然とも見える七字区切りについて、その根拠を見いだし、つぎの考察のための確実な足がかりを獲得することができたのである。(文庫版172ページ)

と小松は言っているが……そうかなあ。4つの解釈のひとつ、「阿女都千之ヲ保ツ」なんて読み方は、「あめつち」本文を知っていれば、かなり蓋然性の低い推定というか……採用するには不自然な文章ということになるんじゃないだろうか。実際4つの解釈は、読者に「あめつち」本文を知らせずに出しているわけで、小松も不自然な文章だと思っているから、「あめつち」本文の提示が後回しになっているのではないかと、若干、勘繰ってしまった。この箇所は、さすがにわざとらしすぎる。

それと『色葉字類抄』の序の訓読だが、203ページ4行目、最後の「可」に「一」点しかついていないが、ここは「一レ」点じゃないと、意味がうまくとれない。誤植だろうか。

なんか文句の方が多くなった感じだが、前半の「いろはうた」についての解釈は抜群に面白いし、仮名遣いについての問題意識も大変勉強になった。またカラー図版で出すべき、『金光明最勝王経音義』もちゃんとカバーにカラー写真が載っている(そういう意味で大変実用的なカバーです)ところなど、本づくりにも好印象。

あー、でも、石川九楊の解説とかは、いらないんじゃないか。小松の解説というか、九楊の関心と小松の学問との接点を語っているという感じで、九楊の日本語についての考えに興味のないおれみたいな読者には、あんまり……。